子どもがピーマン食べたら褒めますか【夫寄稿】

(長女が去年描いた父の絵)

こんなことを呟いた翌日の朝、わたしのメールアドレス宛にブログ用の原稿が送られてきた。仕事早すぎないですかね。

せっかくなので寄稿記事ということで掲載します。感想などいただけると夫が調子に乗ります。

子どもがピーマン食べたら褒めますか?

数年前の11月。

第一子である長女が誕生した日、私は多くの親がそう願うように「元気にすくすく育ってほしい」と強く感じた。

と同時に、こうも感じた。

「賢い子になってほしい」

いわゆる学校の勉強ができる子どもというわけではなく(もちろんそれはそれでできるようになって欲しいが)、それ以外の面でも賢い子。

端的に言うと、「知的好奇心のカタマリ」のような子。

知らないことに出会ったときに、自然と目がきらきら輝く子。

 

じゃあ、どういう子育てをすべきなのだろう。徹底的な早期教育? 読み聞かせ? 情操教育?

どれもしっくりこない。

自分の意思を伝える手段をまだ持たない娘を見ながら日々考えた。

到達した結論。

  • 子どもの持つ「知りたい」という本能を信じること。
  • 大人の価値観の枠で子どもを見ないこと。

 

昔、テレビであるドキュメンタリー番組を見た。

細かいことは忘れたが、小学生が夜ごはんのお弁当を持って塾に通い、22時近くまで算数の問題と格闘していた。算数オリンピックの問題に挑戦させるような塾だったと思う。

密着取材をしていたディレクターが、その塾に通う小学生にこんなことを言った。

「大変だね、友だちと遊べなくて」

ああ。言ってしまった。

その小学生は確かに遊んでいた。算数オリンピックの問題を題材にして。

同じように楽しそうにその問題に取り組む友だちと一緒に。

 

ディレクターはその小学生の努力をねぎらい、褒めるつもりでこの言葉をかけたのだろう。

それはよくわかる。悪気があったわけではもちろんない。

 

が、しかしである。

子どもが世界を認識する仕方と大人のそれとは全然違うのではないか。

前々からこう考えていた。

 

 

例えば、「面白い」という感覚について。

 

大人は、「これは面白いぞ」・「面白いことを言おう」という判断をした後に、その発言をする。

それが自分の予想通りに「面白い」という評価を得ることもあれば、そうでもないこともある。

 

小さい子どもの場合はどうだろうか。

 

大人の前で何かを口にする。

するとそれを耳にした大人が笑う。

「あっ、これは面白いのか」と子どもは初めて知る。

そして飽きることなくその言葉を繰り返す。

 

「面白いことを言ったから周りが笑う」のではなく、

「周りが笑うということは、これは面白いのだ」と認識をする。

これが子どもではないか。

この世界の切り取り方を、我々大人はいつの間にか忘れてしまうのではないか。

 

うちの長女は寝る前に必ず本を読む。

2歳ぐらいのときには、絵本を読んでもらいたいあまりよく大泣きしていた。

子どもは本を読んでもらいたくて泣くのだ。

もちろん、本の内容そのもの以上に、それを読んでもらうときの親との触れ合いを求めるという事情もあるだろう。

しかし、子どもにとって本を読むことは遊びそのものである。

 

いつからだろう。本を読むのが遊びではなくなるのは。

なぜなのだろう。いつの間にか子どもが本を読まなくなるのは。

小学生同士で、明日何して遊ぶ? 本読もうぜ! という会話がされないのはなぜだろう。

 

本を読まずに育った親は、自分の子どもには本を読ませたいと願う。

自分がしている後悔をさせたくないという理由で。

 

本を読まずに育った親は、自分の子どもが勝手に本を読むようになるという状況が想像できない。

自分がその経験をしていないことが原因で。

 

だから、「あなたは本を読みなさいね」と子どもに言ってしまう。もちろん子どもが賢くなることを願って。

当然、悪気はない。

 

子どもは、親が「やりなさい」と言うことは「面白くない」、

親が「やめなさい」と言うことは「面白い」と学ぶ。

かなり幼いときに。

 

「面白くないことをやりなさいと言われる」のではなく、「やりなさいと言われること=面白くない」と

「面白いことをやめなさいと言われる」のではなく、「やめなさいと言われること=面白い」と

子どもは理解する。

 

4〜5歳の子どもに、「君には絶対に風呂洗いはさせてやらないよ」と3日続けて言ってみたらどうなるだろう。

おそらく3日目には、我慢できずに「風呂洗いをさせてよ!」と言ってくるだろう。

 

小学生の子どもが夜遅くまで塾で算数の問題に取り組む。

この状況を見たとき、多くの大人は自分の価値観を投影し、「大変だな」と感じる。

もちろんイヤイヤやっている子どももいるだろう。

しかし、先ほどのドキュメンタリーに出ていた小学生は明らかに楽しそうだった。

ディレクターがかけるべき言葉は、「楽しそうだね、算数の問題で遊んでて」だったのではないか。

 

子どもがピーマンを食べたら褒めていないだろうか。

ピーマンは食べたくなくて当然という大人の価値観の枠で考えていないだろうか。

 

「テレビゲームをしていても褒められないのに、算数の宿題をしていたら褒められる」環境で育った子どもはどういう価値観を身につけるのだろうか。

「ふつうは算数の宿題なんてやりたくないことなのだ」

この価値観を植え付けることにはならないだろうか。

 

褒めることが、その行動そのものに対しての動機を弱める可能性を我々は意識しておかなければならない。

親が望むような行動(勉強・読書など)をしている子どもにかける言葉は、「えらいね」ではなく、「楽しそうだね」がいいのではないか。

それだけで子どもは「知りたい」という本能のままに突き進むのではないか、というのはいささか楽観的すぎるだろうか。

 

そう言えば、早起きしてブログを書くのって楽しそうだね!

 

こんなことを考えるきっかけになったのは以下の本。

 

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